「Pardon!」

 

はじめてそう声をかけられた時、その堂々とした響きと距離感の近さに驚いた。大声ではないが、確かな主張がある。脳を叩かれたような衝撃。

 

あれはパリのメトロ、駅構内。私は見慣れないマップと睨み合いながら、乗り換えるルートを探して歩いていたのだった。注意力が散漫な私を、「Pardon!」は現実世界に引き戻す。「ごめんなさい」と小声で答えたときには、相手はずいぶん先に進んでしまっていた。

 

「Pardon(パルドン)」を後から調べ、日本語の「すみません」「失礼」にあたる言葉と知る。町中でぶつかりそうな時、狭い通路で後ろを通る時、言葉が聞き取れず聞き返す時などに使われるそうだ。

 

私は首をかしげる。この言葉に対して、なぜ私は「ごめんなさい」と答えたのだろうか。怒られたのだと勘違いしたのだが、何一つ悪いことはしていなかった。強いて言えば周囲を見ずに歩いていたことだろうが、それで問題を起こしたわけでもない。それでも私は「ごめんなさい」と、弱々しい声で返してしまう人間なのだ。

 

それからフランス人が発する「Pardon!」への憧憬が生まれた。あんなふうに自然に注意喚起したい。強く、気高い「すみません」を。けれど私が言う「Pardon」はどこか力がなく、あんなふうにキマらないのだ。

 

そんな話をフランス人の友人に相談すると、大笑いされる。

 

「自分が100%悪いわけではないんだから、掛け声みたいなものじゃない」

 

解説されるのだが、判然としない。ここで「自分が100%悪い状態」について深く考えてしまうのが私である。

 

そもそも自分が100%悪い状態など、極めて稀なのではないか?愛するパートナーとの日々の喧嘩だって、上司に焦らされて引き起こしたミスだって、どちらかが100%悪いわけでは……。

 

「そうよ、だからなんで謝るの?」

 

友人は小さなカップでカフェを飲みながら、至極当然という感じで答えた。

 

ところで、フランスはトラブルが多い。メトロがストライキで運休したり、ドアが壊れたり、シャワーのお湯が出なくなったり。まあ、いろいろある。だいたいそういう時、しかるべき問い合わせをすると理由が説明されるが、謝罪はない。事情をアナウンスしている人は「悪くない」から。

 

その憮然とした態度に、戸惑う日本人の私がいる。「え、だって私のこの悲しみや怒りに対して、誰が責任をとってくれるの?」と心がぐずつくのだ。納得できないから、誰かのせいにしたい。

 

日本の「ごめんなさい」は誰かの負の感情を受け止め、自己犠牲と引き換えに場を落ち使える役割があるように思う。謝ることを目的としない「ごめんなさい」に慣れた私は、理不尽な状況を自分で納得する力が衰えてしまったようだ。私はきっと、「ごめんなさい」に依存している。

 

フランス人の態度は、そんな私たちに相手の負の感情を受け止める必要など一切ないことを教えてくれる。相手が勝手に怒り、勝手に悲しんでいることで自分が謝る必要などないのだ。自分が悪くなければ謝らないということは、そういうことだろう。

 

では、フランスでもしも本当に謝りたいときはどうするのか?私は過去に一度だけ、「Je suis désolé」という言葉をそっと手渡されたことがある。その響きとともに、眉間に刻み込まれたシワと、潤んだ瞳が忘れられない。あの一件は、あの一言によって成仏した。

 

「Pardon!」が日常のちょっとしたぶつかりあいやトラブルを解消する掛け声として機能しているから、本当に謝罪が必要なときの言葉の重さが際立つ。謝罪するということは、「自分が100%悪い」という極めて稀な事態を招いたことを認めるということなのだから。

 

フランス帰国後、重いスーツケースを体の横に置き、東京の駅のホームに立つ。電光掲示板に示された時刻に電車が来ないと、「お忙しいところ大変申し訳ございません」という平坦な声が響き渡る。エコーで拡張され、何重になり、もはや聞こえない。私のスーツケースにぶつかった青年が、無言のまま早足で去っていく。

 

私の「ごめんなさい」は、大切なその時のために、私のためにそっと心にしまっておこう。そして、フランスに次降り立つときこそ言うのだ。

 

凛とした姿勢で、「Pardon!」と。